長徳寺の縁起



中島山井華院長徳寺略縁起

抑々(そもそも)、当寺は行基(ぎょうき)菩薩(668~749)開闢(かいびゃく)の霊地なり。その昔は天台宗の道場なり。行基菩薩開闢の言い伝えに次なる謂(いわ)れあり。

行基菩薩、東国を教化に巡錫(じゅんしゃく)の折節(おりふし)、当長井郷の字中島に寄錫(きしゃく)され給う。この土地の有り様を見るに、遠くなだらかな台地四方に広がり、潮さす海の入江は幽玄の趣を備えたり。誠に俗塵(ぞくじん)を離れた仏道修行の地にふさわし。又、頭(こうべ)をめぐらせば、後ろには千載(せんざい)の松緑も鮮やかに、前には波濤(はとう)を越えて霊山富士の高嶺(たかね)に雪白く見ゆる。且つ又、近きには箱根の夕霞(ゆうがすみ)、江之島の朝霧(あさぎり)、鎌倉山に続く浦辺には海士(あま)の小舟、伊豆の川奈より三崎に渡る相模灘をはしる客船の風帆(かざほ)が映す景色を賞翫(しょうがん)せぬ者は無し。

殊に、東嶺(とうれい)に出る新月の光には、閻浮(えんぶ)の化主(けしゅ)出世を哀愍(あいびん)し給いて、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)の闇を照し給うが如く思われ、西山(せいざん)に傾く落日の景色には、無畏(むい)の教主来迎影臨(ようりん)の光を顕し、迷倒(めいとう)の衆生(しゅじょう)を照耀(しょうよう)し給うかと疑わる。欣求西方(ごんぐさいほう)の輩が棲身(せいしん)の地、念仏有縁(ねんぶつうえん)の所ならんと。

又、この土地は中島と呼んで、閻浮檀金(えんぶだんこん)の如来鎮座の地と名を同じくす。彼を川中島と云い、是れは海の入り江の中島なれども、同く中島と云う。弥陀願船(みだがんせん)の寄るべき岸、なんぞ衆生此処(ここ)を法(のり)の弘むべき所と願わざらんや。最も由縁あるべき所とて、一念仏の基趾(きし)を開き給う。

時に、里人の気質を鑑(かんが)みるに、漁猟を以て営みとする故、その気質猛々しく頗(すこぶ)る温順の化儀(かぎ)信受し難し。ここに於いて立本仏念仏勧誘の傍らに方便を顕し、態々(わざわざ)摂受の慈軀(じく)を隠し、折伏(しゃくぶく)威徳の尊形を示し、手ずから鑿(のみ)を取り給い不動明王の尊像を彫刻し、長く利益(りやく)を祈り給う。

将又(はたまた)、行基菩薩が尊像を造り奉らんとする時に、何処ともなく大木の流れ寄り来るあり。その大木の根は当郷の東岸に着く故に、そこを大木根と云うと。大木を彫刻して不動明王並びに阿弥陀仏の尊像をなす。後、この阿弥陀仏は善慶寺(ぜんぎょうじ)の本尊となる。

然るに、この中島の境地は潮の中の砂場なれば、供御(くご)の水を汲むことも能(あた)わず。依って、行基菩薩、大いに丹誠を抽んじ井泉(いせん)の地を示さんことを祈るに、修法未だ終わらざるに、忽然(こつぜん)として澄水湧き出る。湛々(たんたん)と溢れ出て低きに流れ落つ。その霊験最も尊崇すべし。里人等、ここに於いて行基菩薩を渇仰信伏(かつごうしんぷく)す。里人は溢れる水の一滴にだにも漏れ失うことを怖れ、急ぎ井桁(いげた)を造る。図らずも、その井桁長きにより、人々これを称して長イ井と呼ぶ。行基菩薩、始めに流井(ながれい)と称せしが、里人は長井・長井と呼ぶ。故に、後の世に伝えて郷の字名となる。長井の郷名由来なり。又々、その清水の流れ落ちて潮の水と混じる所を井尻(いじり)と名付く。

時の人々、忽(たちま)ちに尊像信仰の志起こりて堂宇を設け、行基菩薩霊水所感(れいすいしょかん)の奇異を世に示さんとて寺号を長徳寺と号す。霊験希有の勝地として信ずべし、仰ぐべし。

世移りて中古に至り、源頼朝公の御治世に当郡衣笠の城主三浦大介義明公、不動明王の威力を尊崇し給うこと深く、郡中の七尊に帰敬(ききょう)す。是れを三浦七不動と云う。今の尊像は是れその一なり。同じく大介嫡男三浦荒次郎義澄公、長井の郷に浜場を築く。今云う所の荒崎ヶ崎なり。今城跡と云は本陣の古跡、今屋形と云うは是れ館舎の遺称なり。今番場と云うは往古の番所を立てし所なり。又番屋ヶ崎と云い、又城ノ口・木戸際等の古名を以て畑の小字とす。全て今称する所、往古の遺称なり。

ここに三浦荒次郎義澄公、深くこの尊像を崇敬の余り、右大将源頼朝公が鶴岡八幡宮を勧請せらるゝに倣(なら)い、屋形の東に別堂を設けんとす。堂塔(どうとう)成就の日まで、仮屋を建て尊像を安置す。今の仮屋ヶ崎、是なり。堂宇忽ちに成りて、尊像を移し奉る。而して信敬弥々(しんぎょういよいよ)厚し。又更に、供御の井泉を開かんことを思うに、境地は海岸の石岩なり。義澄公、不動明王に祈誓(きせい)して、井戸開くべき地を示し給わんことを。仏の加護やあらん。夜、夢中に告げて宣(のたま)わく、最も海水に浸されたる岩の面を掘るべしと。義澄公、明くるを待ちて石工に命じて岩に斧を打たしめば、即ち水漏出して一清泉を成す。この泉水は百日の日照りといえども、水湛々(たんたん)として絶ゆることなし。奇異の至り信ずべきもの歟(か)。今、不動の井、是れなり。

然るに、義澄公、不動の尊像を衣笠城中に移し置くといへども、中島の本地にはもとより阿弥陀の尊像を本尊とするが故に、僧侶等堅く護持し奉る。折々に、義澄公の懇請(こんせい)により祈誓(きせい)の丹誠を凝らすといへども、朝夕の供御を疎んずることなきように、中島の御本地の留守職(するしき)として善慶坊とて一坊を建つ。郷は、積善余慶(せきぜんよけい)の意味と知るべし。


斯(か)くて、霊像の奇異は止むことなく、室町の将軍足利尊氏公、鎌倉にまします折節、御教書(みきょうじょ)を下して天下安全の祈願所となし給う。同第二将軍も先例に任せ天下祈願所たるべき御教書を御与え下さる。後に将軍京都へ移らせ給うといへども、先例を遵守し御教書を下し給う。以上、御教書は三通なるが、二通は焼失し、漸(ようや)く一通残る。永和四(1378)年五月二十六日付けの足利氏満公の御教書なり。本地の勝跡、霊像の威力、寺門の繁昌、この時なる歟(か)。

室町幕府第五代将軍足利義量(よしかず)公(1407~1425)の頃、近臣某あり。将軍御治世僅か三年にして薨去(こうきょ)し給う。近臣某、世の無常此処にありと、将軍の御菩提を弔わんがため、且つは恩寵を報ぜがんがため、自分の宗旨なればとて髪を剃りて天台宗に入る。その師曰く、汝、是れ一念三千止観実相を覚了(かくりょう)するの人なりとて、了念坊(りょうねんぼう)と名付けられしと。遂に出塵(しゅつじん)の本懐(ほんがい)を遂げしが、猶(なお)も遁世(とんぜ)行脚(あんぎゃ)の思いを起こし、諸国巡廻の志あり。将軍御先祖の霊廟(れいびょう)鎌倉にましましければ、ここを先途と都を出て東関(とうかん)に赴く。漸(ようや)く路程(ろてい)を経て行くに、蓮如(れんにょ)上人と申し奉る明師(めいし)、越前の国にて教化を施し給うに、人々こぞって帰依すと。

殊に越前の吉崎(よしざき)に一宇(いちう)を開き給うに、近江竹生島の弁財天女、女性(にょしょう)の姿に現じ給い、日夜に化を受け給い、女人(にょにん)成仏(じょうぶつ)の玄意(げんい)を領受(りょうじゅ)す。これに依って念仏得度堅固の行者はその守護を蒙るとなん。誠に蓮如上人と申し奉るは、生身(いきみ)阿弥陀如来なりと人口に膾炙(かいしゃ)す。

了念坊、是れを聞くに、噫呼(ああ)、宿縁(しゅくえん)の多幸と知りぬ。我が未来の本師なるべしとて、直ちに吉崎に至り上人に随遇(ずいぐう)し奉り、未来一大事の捷径(しょうけい)を問い奉る。師、他力本願横超円頓(たりきほんがんおうちょうえんとん)の教示を授け給うに、凡夫直入の信心決定(けつじょう)し、往生浄土の要旨を諦(あき)らかに受(じゅ)(とく)す。師、猶又一念決定の上は、生涯仏恩を報謝(ほうしゃ)せんには、自信教人信(じしんきょうにんしん)を以て本とする、大悲伝普化(だいひでんぶけ)の思い怠る事なかれと示し給う。了念、有り難くも御教化を蒙り、師の指示し給う所、自信教人信と云々。

我れ曽()つて御先祖古将軍鎌倉の霊廟に詣でんの志あり。然からば、我れ一人信受するのみならず、他も是れを信んぜしめんがため、かの地へ発向せん。兎に角も師の命令に従はんと、事の由を伺い奉るに、上人曰く、一人なりとも一味の安心に住せんも、報仏恩の勤めなりと。了念坊、有り難く御許容を蒙りしが、親しく教化を蒙りし故、昵近(じっきん)し給仕をも仕るべきに、斯かる遠境に発向せんとの御願い申すこと残念なりと後悔に及びければ、上人宣わく、愛別離苦(あいべつりく)は世の習なり。将軍家祖先の報恩の存志、豈(あに)やむべけんや。師弟遠く隔たるとも、我が膝下(しっか)にあるの思いをなさんため、御筆を執りて六字名号を大幅(たいふく)に認(したた)めらる。聞法信受するに付いて、手ずから是れを授け給う。了念、押し戴いて、嗚呼、我が本懐ここに定まりぬと。而して、肌身放さず尊重恭敬(くぎょう)し奉る。当寺伝来の聞法付属の名号是れなり。信ずべし。了念旅行の身ながら大悲仏恩の称名(しょうみょう)を怠ることなく、行く先々至る所にて先縁(せんえん)を叩いて此の六字名号を拝礼せしめ、猶他力本願の旨を伝えせしむ。程なく鎌倉に到着す。

了念、先々古君将軍の廟所に参詣し法施を捧ぐ。思うに、それ三浦郡長井の中島の道場と言えるは、是れ又将軍累代の御祈願所にましましけるとかや。一見のためにもと、心を寄せ尋ぬ。則ち、当長井郷の中島道場に到着す。堂舎に詣り、丁寧反復し恭敬礼厚きを、寺務(じむ)図らずも見及ぶ。偉容寛大の道心者なれば、請(しょう)じて室に入れ問うに、その姓名を隠して答えず。只曰く、当山に亦我れ深長の因縁あるかと而巳(のみ)云々。

数日留まる内に蓮如上人の教化を伝え、親しく付属の六字名号を拝ますに、忽(たちま)ちに信心発起し、聞法肝胆に徹し全別の真心獲得しける。乃(すなわ)ち請じて曰く、願わくは、当山に留まりて我が師と仰がれ給い、且つ又、当郷を始め国郡の民をして成仏の距りを示し給へと。訳ても、当山に有縁(うえん)の人、師と宣うにおいては、当山の寺務たらしめ給えと。

則ち、了念御坊を師とし、猶当山の首祖(しゅそ)と仰ぎて日夜聞法奉事しける寺務は、当山第二世了把(りょうは)より了祐(りょうゆう)へ嗣法(しほう)しけると。爾来(じらい)、真宗の法窟(ほうくつ)となり、他力本願・専修(せんじゅ)念仏の宝刹として相承(そうしょう)しけりと云々。

思うに、寺門日々に繁栄になんなんとする事、往昔、行基菩薩初めて中島へ寄錫(きしゃく)し給い、念仏(ねんぶつ)有縁(うえん)の地なりと示し給いし時、機を誘んがため、傍らに不動の霊験を遺(のこ)し給うといへども、以って念仏本懐と示し給いし宿縁、時至れるにやと、他力本願真宗念仏弘通の勝地となる事、符号せるものか、爾云(しかいう)

右、略縁起並びに由緒は、第六世了道(りょうどう・1981入寂)が古記によって畧記する所なり。